夢を叶えるための対価
こんばんは、ささです。
最近なんだか寝つきが悪い。なのに朝は眠くて眠くてなかなか目が覚めない。目が覚めないまま惰性で起きて惰性で仕事に行く。結局なんとなく一日をやり過ごしてよろよろになった足を引きずって、さて帰るかとなったタイミングで他部署の人におもむろに声をかけられた。
さささん、写真集買いますか?
彼女の推しも同じ事務所なので写真集を買うと握手会に応募できるなどの事情は知っている。
あ、はい、買いますよ。的な曖昧な返事をした。
すると彼女はこう言った。
友達が今回も握手会のためにすっごい注ぎ込むみたいで。20冊は買うって言ってました!
20冊。
それを聞いてフリーズした。写真集が一冊2,000円だとして単純計算でも40,000円。大金だ。聞けば前回の握手会でも同じくらい投資したのだという。
それで何回握手会に行けたのか。恐る恐る聞いてみた。
なんか2、3回は行けたみたいです!
なんということだろう。そんなに投資しても行けたのは2、3回。面食らった。
当たるといいですね!と笑顔で自分の部署に戻っていく彼女を見送ってから、なんともいえない気持ちでタイムカードを切ってふらふらと愛車に乗り込んだ。
帰りの車内ではいろいろと考えた。
所詮は運の世界だから、当たるも当たらないもすべては運次第。宝くじみたいに一本買って当たる人もいれば何本買ったって当たらない人もいる。
でも、僅かでも当選確率を上げたいと思うのはみんな一緒で。手っ取り早く当選確率を上げるには?どうすれば?ってなったときに、真っ先に思い浮かぶのはやっぱり金銭的な投資だと思う。ただ、いくら投資をしても当たる保証なんてない。あくまでも当選確率を上げるための手段だ。可能性は100パーセントじゃないし、宝くじの連番みたいに10枚に1枚は必ず当たりが入ってるなんてこともない。事務所がどうやって当選者をふるいにかけているのか知らないのでなんとも言えないけれど、わたしが見聞きした限りでは一冊買って当たった人もいれば何十冊と買って当たらなかった人だっている。
そんな中、彼女のお友達は20冊買う。
単純に、すごいなあと思う。
それに、こんなにも身近にたくさんの対価を支払う人がいたんだってことにも驚いた。
わたしはどうだ。できるか。いや、できない。
たとえばはじめから決められた金額を積めば必ず握手会に参加できる、とかなら話は別として。それで推しに会う夢が叶うなら喜んで支払う。こんな機会にはもう二度と恵まれないかも!と思ったら多少生活に支障を来したっていい。けど、そうじゃない。確実性なんてない。確実じゃないものに、わたしはそこまで傾倒できない。
同じ金額が手元にあるなら、オペラグラス越しの滲んでぼやけような視界に浮かび上がる推しを見にライブに行く回数をもっと増やしたい。決められた時間、決められた場所に行けば推しに会うことは保障されているから。何千何万の中のひとりだとしても絶対に会えるならそっちのほうがわたしはいいな、なんて思ってしまう。
彼女のお友達は、そんなに買っても当たらないかも知れないリスクを覚悟した上で対価を支払う。
もうそれだけですごいことだ。でも、それくらいの覚悟がなければ推しに会うのなんて夢のまた夢なんだろうな、と妙に納得してしまった部分もあって。
自分の応援のスタンス(なんて大層なものじゃないけど)とはかけ離れているけれど、彼女のお友達の決断力を少し羨ましく感じると同時に、よほどの強運でも持ち合わせてない限り握手会を当てるのは容易じゃないのだと思い知らされた。…ってよりは、ほっとした。
当たった!握手してきた!って人ばかりがSNSとかで目立つのは、そりゃそうだよね。当たったら誰かに言いたいだろうし、発信してるのははずれた人よりも当たった人のほうが多いだろうから。そういう人たちはそれなりの対価を支払ったんじゃないかって、そう思えば少しは気が楽になる。わたしはそこまでの対価を支払える人間じゃないから推しに会えなくても仕方ない、って。
推しはそう簡単に会える人じゃない。
そんなふうに自分に言い聞かせて安心してる。
不思議と妬みとかの感情はなかった。
どっかのアイドルなんかはCDを20枚買えば1枚は握手券が入ってる、みたいな話を聞いた。それってわたしの求める確実性そのものじゃないか。だって決められた金額を支払えば、決められた時間に決められた場所で必ず推しに会えるんだよ。羨ましいよ。
せめて夢の中では会いたいと願うのに、やっと眠れてもあなたには会えない。絶対に。
対価を支払うから約束されたものが欲しい。
でもここで差し出す対価って、夢を叶えるための対価には決してなることはできないんだろうな。